あるバーにて 

 中学生時代の遺物。足跡の化石。





 交際相手の加奈が、バーに久しぶりに行ってみたいとせがんできたので、二人で来てみた。外装が洒落たつくりの建物だ。テレビでみたフランスの風景がなぜか、思い浮かんでくる。
「入りましょう」
 そう言って彼女がドアを開けた。眼前に、店のおくまで伸びた岩の洞くつが現れた。
「こういう店なの」
 加奈は、ちょっと変わっているでしょ、とでも言うように肩をすくめた。
 洞くつの中はひんやりとしていた。体の芯までじっとりと冷えていくのが分かった。明かりは無く、真っ暗だった。いつの間にか、加奈が僕の手を握っている。足が、固い地面を踏みつけていっているのは分かったが、足音は聞こえてこなかった。それどころか、自分の息づかいも聞こえてこない。
「いいところでしょう」
 加奈の声は、暗闇の中でみょうに響く。そうだね、と返事をしたのだが、何も聞こえてこなかった。
「大丈夫、聞こえてるわよ」
 僕が言い直そうとするのに牽制して、加奈は言った。
「ここでは相手の声しか聞こえないの。店長のはからいよ。いいでしょ」
 そうだね。
やっぱり、自分の声は聞こえなかった。少しさびしい。
 それから、僕たちは無言で進んだ。お互い、口数の多い方では無いし、喋る理由も無い。

 一時間くらい、僕たちは歩き続けた。時間をはかっていないので実際に一時間なのかは分からないのだけど、別にどうでもいいことだ。
 道はずっと直線だった。外から見たかぎりではあまり大きな建物には見えなかったから、きっと建物をつき破っているのだろう。実は二丁目の大通りにいるのかもしれない。あるいは海のうえか。
「そろそろね」
 目をいくらこらしても先には何も見えなかったが、加奈が言うのならそろそろなのだろう。
 そのまま歩き続けていると、目の前に壮大な砂漠が広がった。同時に、あしもとの感触が変わる。
「あっちよ」
 加奈がゆびさしたほうを見ると、そこには雰囲気のよさそうな、やはりフランスを連想させるバーが、ぽつんと建っていた。
「なかなかよさそうな店だね」
 いつのまにか、自分の声も聞こえるようになっていた。そのことで僕が驚いたのに気づいたようで、加奈はクスクスと笑った。つられて僕も笑った。

 ドアを開けると、真っ赤なスーツを着て、それを同じ色をした髪をツンとたてた、ウエイターらしき男がいた。
「ボックス席で」
「こちらへどうぞ」
 やはりウエイターだったようだ。彼は見かけによらず洗練された動きで、一礼をしたあと、僕たちをボックス席へと案内してくれた。席に行く途中、シルクハットにアロハシャツ、Gパンという格好をした老人が、カウンター席で深い赤色をした飲み物を飲んでいるのを見かけた。席についたとき、ウエイターにあれは何ですか? と聞いてみた。
 「レッド・ブラッド。牛の血ですよ。お客様、あれをご所望で?」
 丁重に断っておいた。加奈が、シュレティンガーというカクテルを頼んだので、僕もそれにならった。老人がとてもおいしそうに牛の血をすするのが見えた。本当においしそうだった。
 それから、加奈と話しはじめた。話す事に没頭した。
 やがて、カクテルが運ばれてきた。夏の空のような、つきぬけた青色をしていた。そのうちに歌が流れはじめた。男性が情熱的にさけんでいるようでもあり、女性が静かにうたっているようでもあった。両方かもしれない。別にどうでもよかった。カクテルの味も、赤毛をいじっているウエイターも、牛の血をおいしそうに飲む老人も、どうでもいい。
 アルコールの力もあってか、ずいぶん長々と話した。ここまで饒舌な彼女を見たのはひさしぶりだ。加奈の方も、僕がここまで喋る事が出来たのか、と思っているのだろう。
「そろそろ帰りましょう」
 僕はうなずいた。
 カクテルはあまり高くなかった。砂漠は暗くなっていて、涼しかった。もともと浅い酔いがぬけていく。それからの道はまた無言だった。洞くつの中では、また加奈が手を握ってきた。
 
 外に出たとき、夜はもう明けていた。疲れはたまってなかった。そんなもの、どうでもいいのだ。
 加奈は僕の手を握っている。それだけだ。

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