雪原 

どうかなー、って思う。
何度読み直してもどうかなー、って思う。
あれか。キャラか。やっぱりキャラがいけないのか。

最近思うのは、ぼくの書いたのにはストーリーがないーなーってことです。


 頭のすぐ横、白い壁の上をハエトリクモが歩いている。その赤色とこげ茶色で出来た生物は、うぶ毛の生えた附属肢を前後にこきざみに動かしながら、四対八本の足を器用に動かし、ぼくの視線をものともせずに、ただ淡々と歩き続けている。
 いったい、食べたらどんな味がするんだ。
 そのぷっくりとした腹を見てそんなことを思った。唾液腺からよだれが沸いて出るのを感じた。顔をすこし近づけてみると、黒く小さな眼が見える。それを囲むようにして飛びでる附属肢の、密生する白いうぶ毛の一本一本が見える。
 ――クモの顔の前にある附属肢、鋏角は鎌のようなかたちで、その鋭い先端を獲物に突き刺し、毒を注入します。
 いったい、食べたらどんな味がするんだ。
 味覚。きっと人類で一番繊細な感覚なのだとぼくは思う。毒を食べて死んだ者。舌で感じて吐き出した者。味蕾。みらい。ミライ。すさまじい淘汰の果て。だからぼくは、何かを食べて、あるいは飲んで、脳髄があまみだとか、からみだとかを感じるたびに、「食べることは、生きることでもあるのだなあ」などと分かった顔でうんうんと頷くのだった。
 ――クモは獲物の体内に消化液を注入します。これを体外消化、と言います。どろどろの液体となった中身をジュースのように飲むのです。そのため、獲物の死骸には中身がまったく無くなってしまいます。
 いったい、食べたらどんな味がするんだ。
 クモはただ淡々と歩き続け、気付けば視界から逃げ出してしまっている。辺りを見わたしてみたが、もうどこにもいない。
 さようなら。
 手を振ると、指先に風を感じる。それだけだった。
 急に携帯が震えだした。メールだ。開いてみると加奈美からで、文面は次のようなものだった。
「緊急!
 ただいま、わたしが家に帰るための足を募集中です。
 報酬はケーキ一個です。
 駅前のクレープ屋さんの前に居ますので、なるべく早くに迎えに来てください。
 なお、このメールは読み終わった後、【爆発】します」
 文章はそれから何十行も改行されて、最後にこう付け加えてあった。
「PS.嘘です」
「マジ? 嘘なの? うっわー、やめろよ。心臓に悪いわー」
 ひとり、わざとらしく驚いたそぶりをすると、とてもむなしい。それが分かっただけでもとても有益な行動だった。以降二度としないことを誓って、家を出る。駅前までは原付に乗れば八分でつく。丸い広場の西側にはクレープを売る店があって、その前にはベンチがあって、加奈美はそこに座っている。腰まである白い髪が陽光を反射してきらきらときらめいていた。
「待った?」
「ううん。全然。……ケーキひとつ食べちゃったけど」
「食べたのかよ!? 報酬は?」
「大丈夫。あと三つあるから。うち二つは私のだけど」
「太るぞ」
「自己管理くらいできますので」
「さいですか」
「あ、でも昨日ひさびさに計ったらなぜか三キロ増えてたんだよね。なんだったんだろう、あれ。体重計の故障かな」
「……あー。ねえ?」
 強く風が吹く。寒い。もこもことしたダウンジャケットは何の役にもたたず、世界が冬に満たされていた。山奥を流れる渓流のような冬だった。透き通って眼には見えず、さらさらと流れる気配だけが感じられた。
「じゃあ、乗りなさい」
 身体をすこし前にずらして催促する。空いたスペースに加奈美がまたがる。
「つうかね、いいかげん車買いなさいクルマ。寒いでしょうが。私が」
「ならばお金をください。そして免許もください」
「せめて免許くらい、自分で取りにいきなさい」
 エンジンをかける。おもちゃみたいな排気音が響く。風にあおられ、しばらく切ってない髪がばさばさなびく。加奈美の髪もきっと同じで、風をうけ、たんと伸びて、僕の背後で綺麗な残像を残していることだろう。それを見られないのは実に残念なことだった。彼女の髪は白く澄んでいて、まるで流星のような輝きを秘めていた。それでいて力強く、張りがあった。生命力に充ちていた。まるで雪原のようだ、と人は言う。彼の言葉には、雪の下、じっと冬を堪え忍ぶ植物のひっそりとした意志が溢れかえっていた。
 つまりはそういう類のものだった。宝石に似て非なるものだった。鉱物にあんなハキハキとした饒舌さはない。
 やがて彼女の住むアパートに着いた。原付から降りると、彼女が視界に入って、いままで気配のみだった白い髪の生きた感触が五感からなんの障害もなく伝わる。その瞬間、ぼくはいつも息ができなくなってしまうのだった。そんな様子には気付かないまま彼女は歩き出す。その後ろをついていく。
 部屋の前で鍵を開けながら加奈美は言う。
「あ、散らかってるけど、気にしないでね」
「いつものことだろ。もう慣れたよ」
「……あー。ねえ?」
 ドアを開けると、積み重なって地層となった漫画の群れに迎えられた。はるか向こうに万年床がしかれ、唯一そこだけが漫画の浸食から逃れている。テーブルの上にはカップだけになったカップ麺が山となっている。割り箸がざくざく突き立てられた剣山だった。触れればくし刺しされてしまいそうな鋭さがあった。わたしはいつまでもここに居座るのだ、という無言の示威行動だった。さっさといなくなってしまえば部屋が片付いてよかった。
「うん。いつもどおりだ」
「いつもはもうちょっときれいだよ」
「えっと、どこらへんが?」
 彼女はすっとソファーを指差した。上には『ベルセルク』と『うしおととら』が混然となって散らばって、見事なモザイク芸術を作っている。カオスと偶然の産物である色彩は、しかし崇高さなど微塵ももっておらず、見る者は「実にきたないへやだなあ」と妙に感心してしまうのだった。
 彼女は言う。
「いつもはソファーは片付いてる」
「ああ。はいはいはい、そうだね」
 ぶあつい漫画の地層にも数カ所ぽっかり穴があき床が見えている。その穴を足場に、とんとんと飛んで布団へと無事着地する。その後ろを加奈美が慣れた足取りでついてくる。ケーキの箱も危なげがない、舞うように華麗なステップだった。あまりにも華麗なので、おもわず自然と拍手してしまった。
「なに? 喧嘩売ってるの? ケーキあげないよ。柿のケーキだよ。絶妙なあまさ加減だよ。職人芸だよ。三二〇円だよ」
「ケーキは欲しい。めちゃ欲しい。くれ!」
「そこまで言うなら、あげましょう」
 それからふたりでケーキを食べた。柿のケーキはおいしかった。ほんのりあまい柿とくっきりあまいクリームがたがいにほどよく融けあって、舌の上に巨大で静謐な王宮を建設した。うんうん、とぼくはうなずいた。うなずいては食べた。食べてはうなずいた。
「まるで料理評論家みたいねえ」
 ぼくの動きをじっと見つめて彼女は言った。
「そういうきみは早食いの選手みたいだ」
 彼女はすでにモンブランをきれいに食べ尽くし、今はチーズケーキのつつみを喜々としてはぎ取っているところだった。
「こんなの普通よ。女の子の別腹はブラックホールなんだから」
 あ、こいつ、堂々と「女の子」なんて主語つかいやがった。
 結局、ぼくが柿のケーキを食べ終わるのと、彼女がチーズケーキを食べ終わるのはほとんど同時だった。
「いやあ、食べた食べた」
「うん、食べた食べた。たべたべた」
 ゆっくりとのびをして、加奈美がごろんと横になる。途端に布団が狭くなる。僕のあぐらに頭を乗せて、白い髪が間近になる。わずかな息遣いすら感じる距離。耳のうぶ毛までがよく見える。
 彼女の頭の体温で、ももがじんわりとあたたかい。
「というわけで、私はこれで寝ますので。しばらく枕になってください」
「わかりました。では、ぼくは漫画を読んでます」
「別にいいけど、エロいのは読むなよ」
「読まねえよ」
 ……というか、あるのかよ、エロイの。
 手の届くところに『三月のライオン』の一巻があったので、とりあえずはそれを読むことにした。唐突な出だしに戸惑いながらも、次へ次へと読むうちに周囲の景色が消えて、気がつけば夢中になっている。あっという間に既刊を読みきってしまって、ふう、と一息ついた。凝った肩をまわすと、意識が現実にゆっくり戻ってくる。いつのまにか足の感覚が無くなっていて、それは加奈美の頭の重みのせいで、思わず笑って、そっと寝顔を盗み見て。
 白い髪が眼に映った。瞬間、意識が止まった。息がつまった。視界がまっしろに染まり、なにもかもが意味を失い、漫画のストーリーもまったく吹っ飛んでしまった。そのとき宇宙はひとつの雪原だった。彼女の髪がさらさら白く、きらきらまばゆい光景だった。
 右手で髪を撫でる。ゆっくりと撫でる。たちまち触覚がかたちを持ちはじめる。つややかな髪のかたちを持ちはじめる。その感触だけが全てだった。他の感覚はなんの役にもたたなかった。ただのまっしろなフィルム映画だった。風に吹かれてからからと空回りしていた。
 回転。渦。銀河。つむじ。
 白いつむじの上を、クモが一匹歩いているのが見えた。その瞬間、感覚がくっきり明確になって、ぼくの意識はふたたび動きはじめた。まわる歯車がかみ合うずっしりとした重さを感じた。その意識をすべてつむじの上のクモへと注いだ。赤色とこげ茶でできていて、鋏角には白いうぶ毛がみっしりと生えていた。そうして、彼女の髪を淡々と歩き続けている。そんな様子を眺めていると、白い髪が、まるでクモの糸のように感じられた。
 ――クモの吐く糸は鋼鉄の四倍以上もの硬さをもっています。糸にはいくつかの種類があって、またクモによっては特有の糸を持つものもいます。たとえばサラグモの一種は、メスが性フェロモンを含んだ糸を用いて巣をつくり、オスを誘うのです。
 あるいは、本当にクモの糸なのかも知れない。それもありえないことではない、と思った。
 もういちど髪を撫でる。さらさらと心地良い。それがなんだか嬉しくて、彼女の頬にそっと手をのせた。あたたかい。そして柔らかだった。
 ぱっと彼女が眼を開く。
 しばらくぼんやりした目つきでいて、そうしてニッと笑って、
「人の寝顔をさ、あんまりじろじろ見ないでよね」
 よっこいしょ、と声をかけ、身体を起こす。頭が遠く離れていき、麻痺しきった太ももに血が流れ込む感覚がする。
「ね、今何時くらい?」
「五時十分」
「んー、中途半端な時間だなー」
「? なんかあんの」
「いや、飯くらい食ってくっしょ。作るよ」
「作るたって、どうせカップ麺だろ」
「なんだよー。カップ麺じゃ不満かよー」
「不満じゃないけど、純粋に飽きた」
「不満なんじゃねえかよ。どうせ私は料理できない女ですよ」
 加奈美は拗ねて、また寝ころがる。頭がふたたび足の上で、白い髪の毛と黒い目が近くなる。遠近法で視界を埋める彼女。下から見あげて、長いまつげがまたたいている。
「じゃあさ、じゃあさ、どっか食い行こうぜ。きみの奢りで」
「奢りかよ。別にいいけど。どこ行くの?」
「『くもの糸』!」
 どきり、とした。心臓が射止められた心地だった。意識が止まり、あのまっしろな世界が間近だった。けれどもすぐに、それら全てが遠ざかって、ぼくはうなずいた。
「いいんじゃない。行こっか」


 『くもの糸』は県境にある蕎麦屋だ。とにかく白い細い麺がうりで、その味は無類なのだけれど、いかんせん店名が店名なのでまったく繁盛していない。唯一の従業員である斉藤は「いい加減に名前変えようとおもってるんだけどさ、親父がさ、な。わかるだろ」などとほざいているが、その実、単に看板を変えるのが面倒くさいだけなのだとぼくらは知っている。
 原付で片道三十分。普段くるには遠いが、こういう時には非常にありがたい距離だ。ぶんぶんぶんとやっているうちに、気づけば腹も減っている。
「いよっす」「おいす。来たよ」
「うっす。てめえらか。まあ座れ。カウンターでいいだろ?」
「ていうか、カウンターしかないじゃんか」
 加奈美が言えば、斉藤があっはっは、と笑う。
「かなちゃんよ、形而上学的に考えれば、むしろこの地球そのものがテーブル席的な性格をもっていてだな。つまり……」
「黙れ。はやくざる蕎麦持ってきやがれ。大盛りね」
「大盛り? ……太るぞ」
「つかお前、さっきケーキ食ったばっかりだろ」
「うるさいな。自己管理くらいできるんだよ、ばか」
「はいはい。ざる大盛りね。で、おまえはなんにする?」
「豚骨ラーメン」
「ねえよ! 蕎麦屋だよ、ここは」
「じゃあ山菜蕎麦で」
「山菜蕎麦もない」
「天ぷら蕎麦は?」
「……それもない」
「ないないづくしだな」
「そうなんだよな。ほら、最近不景気だろ? 客足遠のきまくってさ、俺、まじ、てんてこまい。で色々考えてさ、どうせうちに山菜やら天ぷらやら食いにくるやついないし、いっそメニューから削ってやった」
「へえ。じゃあ残りはなにがあんの?」
「かけ蕎麦とざる蕎麦だな」
「それだけ?」
「それだけオンリー」
 沈黙。しばらく無言が続き、耳の血管を流れる音すら聞こえるほどだった。かち、こち、という時計の音がやけにゆっくりで、どこか遠くで犬が吠える。
「あんたさ、それで大丈夫なの?」
 しんと静まりかえった空気を破り捨てたのは加奈美だった。
「いや、まあいけると思うぞ。そもそも認識論的に言えば……」
「にんしきろんでもにんしんろんでも何でもいいからさ。ま、大丈夫なら別にいいけど。やめてよね、路頭にまよって一家首つりとか」
「しねえよ! ……つうか、おまえはなににするか決まったのか?」
「じゃあ醤油ラーメンで」
「もうそのボケはいいから! かけ蕎麦でいいよな」
「いいよ」
「じゃ、作ってくるからしばらく待ってれ」
「あいよー」
「了解」
 斉藤が店の奥に引っ込んで、店内はぼくらだけになった。なんとなく手持ち無沙汰で、割り箸をくるくると弄ぶ。加奈美は温められたおしぼりで顔を拭いて、「ふいーっ」と気持ちよさそうに奇声をあげている。おやじめ。
「それ、化粧とか落ちねえの?」
 割り箸でおしぼりを指しつつ聞いた。
「私、化粧しないし」
 ぶいっ、と彼女はピースを突き出すので、ぼくは肩をすくめた。
「そこはしとこうよ。たしなみだろ」
「なにせ貴族ですんで。そういう下々のものの風習とか、わりとどうでもいい」
「おまえの実家ただの八百屋だろ」
「精神的に貴族なんだよ。察せよ」
「精神的にはおやじだろ。悟れよ」
 などと言いあっている間に蕎麦がきて、ふたり黙々と食べた。ぼくはしきりにうんうんと頷いていた。
「ごちそうさん。今日のはまずまずだったかな」
「ごちそうさま。いや、蕎麦の風味がたりない。これは修行のやり直しだな」
「あ、それは私も思いました。緑のたぬきのがよっぽど蕎麦っぽいよね」
「なー」
「いいからお前らもう帰れよ!」
 などと斉藤が怒鳴りつつも、結局、ぼくらはそれから二時間ほど居座った。ずっと三人でとりとめのない話をしていた。客がきたときは二人で話をしていた。半分以上は数少ない共通の友人の話で、誰それが仕事やめた、だとか、誰それが結婚した、だとか、そういったやりとりをしていると、「人生とは実に様々な種類があるものだなあ」なんて妙に納得してしまうのだった。
 時刻が八時をまわり、車の交通量が目に見えて減ってきた。
「じゃあ、そろそろ私たちは帰ります」
「ういす。また来いよな」
「なるべく頻繁に来るようにはする」
 ぼくは苦笑しながら言った。この二時間の間に客は六人ほどしか来なかった。うち四人が会社帰りのサラリーマンで、残りの二人が中年のカップルだった。
「頼むよ。たくさん客連れてこい」
「そう言われても、ぼくにはたくさんの友達がいない」
「つかえねえ奴だな。じゃあ、かなちゃん、よろしく」
「そう言われても、私にもたくさんの友達なんていない」
「ないないづくしだな、お前ら」
 斉藤がそんなことを言うので、おかしくて僕らは笑った。
「斉藤には言われたくないな」
「斉藤くんだけにはねえ」
「うるせえな。とっとと帰れよ、ごひいきに!」
「今日の日はさようなら」「また会う日まで」
 店を出ると、冷ややかな夜気が頬をなでて、その湿った感触がすこし心地良い。冬の清らかな風は精神に吹き渡る。ふたり乗りの原付は車より遅く、けれども歩くよりは速く、そのスピードには確かな手触りがあった。耳元近くに口を寄せて、加奈美が感心したように言う。
「斉藤くんも大変そうだね」
「いや、世知辛い世の中だよ、まったく」
「フリーターに言われてもな。説得力無いよ」
「ニートがなんて言ったって、ぼくの心にはなにも響かない」
「……ほんと、ないないづくしだねえ、私ら」
 あまりにもその通りなので、ぼくらは笑うしかなかった。

 加奈美の布団にくるまれながら、背中合わせにそっと寄り添って、それぞれぼんやりと漫画を読んでいた。加奈美は『クレヨンしんちゃん』、ぼくは『放浪息子』を読んでいた。紙をめくる音、かすかな息遣い、時計は時刻が十時であることを示し、窓の外には高く月が昇っている。
「ねえ、フリーター」
 と加奈美は言った。
「将来のこととか、考えたことある?」
「そりゃ、フリーターやってたら考えないわけにゃいかないすよ」
「でもさ、将来のこと考えないからフリーターになったんじゃん? だのに今は考えてんの?」
「まあ、つけみたいなもんだよな。知ってる? 人の考えることができる量って一生で決まってんの。だからガキのうちから色々考えた奴は早死にするし、なにも考えなかった奴は後で大変なんだよな」
「面倒くさいシステムだなぁ」
「まあね。神様って変人だから、変なギミックばっかつけたがるの。馬鹿でしょ」
「あはははは」
「え? なんか今笑うところあった?」
「いや、しんちゃんはやっぱり馬鹿だなあ、と思ってさ」
「人が真面目な話してるときに、漫画なんか読むなよなぁ」
「めんごめんご」
 遠くからパトカーのサイレンが聞こえる。脳髄で赤いパトランプがくるくると回りはじめる。その動きは心臓の鼓動に似ている。ぼくは加奈美の体温を強く意識する。背中が燃えるように熱い。ぼくらの体内で、生命が燃えさかっているのだ。
 同じようなことを加奈美も考えていたらしい。
「ねえ、こうしてると、あったかいね」
 呟くようにささやいた。ぼくは何も言わずにうなずいた。
「きみみたいな駄目人間でもちゃんと生きてるんだねえ」
「その言葉、そっくりそのまま返してやるよ」
「私は生きてるよ」
 続く言葉は消え入るようにちいさくて、時計の音にもかき消えそうなほどだった。聞き取れたのは奇跡にも近い。
「生きてなきゃ、きみのこと好きになれない」
 瞬間、意識がきわまって、視界がまっしろに染まった。一切がこわばった感覚は、しかし、すぐに溶けてしまって。
 いとおしくて、ぼくは笑った。
「こくられたよ」
「命がけで愛してるんだぜ、べいべー」
 今度は開き直ったようにはきはきとした口調で言い切って、それから布団にもぐりこんで、
「そういうわけで、私、もう寝ます。おやすみ」
 ぼくは寝返りをうって彼女の背に抱きつき、白いつむじにキスをした。おやすみ。
 おやすみ、と加奈美はもう一度だけ言った。そうして、すう、と眠りに落ちていく。
 ぼくは布団を抜け出て部屋の電気をきった。冷蔵庫からコンビニで買った三百六十円のワインをとりだし、瓶に直接口をつけてちびちびと飲んだ。味は最低にまずいけれど、手っ取り早く酔っぱらうぶんには最高のコストパフォーマンスを誇った。濁った血のような赤色を飲み込むと、あまりの感覚に顔を思わずしかめてしまう。指先がしびれて、目の前がちかちかと赤く発光する。やがて地獄は胃のなかにすっぽり収まってしまい、ふう、とそっと息を吐いた。
 ぼくはうなずく。なるほどなあ、なるほどなあ。うなずく。
 窓越しの月明かりがきらきら加奈美に降り注いでいる。光の粒子がくるくる回っている。よく見ると、その粒子は乳白色のクモであって、青白い光のなかを自在に泳ぎ回っているのだ。クモは加奈美の髪にとりつくと、比較的くすんだ、痛んだ髪をもしゃもしゃと食べた。かわりに糸を一本吐き出し、つぷり、頭皮に植えつけていった。新しい髪はたとえようもなく美しく、月光を照り返しほのかな輝きをたずさえていた。
 ――ある種のクモは生まれるとすぐに母親の身体に群がり、これをすっかり食べてしまいます。やがて体液を吸い尽くされた親は、表皮だけの状態になり死んでいきます。生命の厳しさ、その一面を垣間見ることの出来る、印象的なエピソードです。
 生命。と、ぼくはワインを味わいながら思いをめぐらす。生命。しかし、思考は進まない。生命。浮かぶのはただ単語ばかりだ。生命。
「生命」
 呟くと、言葉からはアルコールの香りがした。
 月光に照らされる、加奈美と群がるクモたち。紡がれていく髪。雪原のようだ、と誰かが言った。しかし、それは今や単なる光でしかなかった。視界にまばゆく、意識に明るく、世界を包む夕焼けのように、頭蓋を輝きで満たしていた。
 ぼくはうなずく。なるほどなあ、なるほどなあ。うなずく。
 雪が降っている。世界のどこかに降っている。その感触が肌にはっきりとひりつく。クモが髪を食べている。
 ああ、いったい、どんな味がするんだろうなあ。
 羨ましくなって、涎を口一杯に溢れさせながら、じっと光景を見つめていた。
 サイレンはいまだやまない。やみそうにない。

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