涙の海深くにはリュウグウノツカイが泳いでいる。  

「歪んだ」「認識」「忍耐」「初対面」

 例のごとく三語。入試終わってからの方が書いていない不思議!


 風呂からあがってチャットを覗けば、期待通りに三語がはじまろうとしていた。
 片桐さんがチャットに参加していたのは風呂へ入る前から既に確認済みだった。なればこそ身体を清め、落ち着いた心地で三語に参加しよう、と湯船に浸かったのだった。熱いシャワーの破裂音が空間いっぱいをすっかり満たして、数ヶ月に一度あるかないかの、とても素晴らしい入浴だった。髪をタオルで拭きながら自室に戻ると、ちょうど三語の板が立てられようとしていた。なにもかもが僕のためにあるかのような、奇蹟のような夜更け前であった。この調子ならば。予感に心が躍った。喜々としてテキストエディタをたちあげた。
 筆は快調にすすんだ。自分で書いているのだとは思えなかった。無意識下になにか途方もない存在――たとえば神であるとか、たとえば宇宙より降り注ぐ電波であるとか、そんな空想じみた概念ではなく、もっと生々しく実際的で、ずっと遙かで壮大な印象をうけた――が、自動的に指を動かしているのではないか? そんな怖ろしい感じがあった。その物語はいままで見たことも聞いたこともないようなものであった。あらゆる現実をこえた現実であり、あらゆる幻想をこえた幻想であり、あらゆる認識をこえた認識であり、あらゆる比喩をこえた比喩であった。あまねくシュルレアリストたちが百年前よりずっと思い望み恋い焦がれていた「なにか」がそこにはあった。あまりの出来に、僕はかえって誰にも読ませずひとりで独占してしまおうかしら、と考えるほどであった。
 主人公のとある崇高な葛藤が佳境にはいって、しばらくした頃である。ふいに集中がきれた。あれほどまでに間近だったPCの画面が、すう、と遠ざかっていった。どうしたことだろう、と思ったが、原因はすぐにわかった。喉がかわいていた。風呂からあがって、ずっとキーボードを鳴らし続けていた。水分不足が深刻であった。忍耐の限界だった。ひとまず水を飲もう、そう思って席をたった。

 部屋のドアを開けると、無限の鏡が錯綜していた。無限の僕がこちらを覗いて、うっすらとぎこちない笑みを浮かべていた。

 すぐにドアをしめた。目の前の光景は嘘だ、と思った。意識は不思議と冷静であったが、心臓の鼓動は痛いくらいだった。つばを飲みこみたかったが、からからに渇いた身体からは汗の一滴もでてこなかった。
 ふたたびドアを開けると、鏡でできた空間が真実真性本当のものである、とわかった。
 こんな状況下においても、やはり意識は透き通ったままだった。透き通ったままどこかが確実に欠落していた。あるいは無意識下に降臨した超越性が、僕の自我において最も大切なもののひとつを駄菓子代わりにでもしてしまったのかもしれない。そっと敷居をまたいで、鏡の世界へと踏み出した。足下に、ぴしり、とひびこそ入ったものの、それ以上の破壊はなさそうだった。一歩、また一歩、と進んでいった。足裏のひびと、触覚と、それ以外のすべてがゆっくりと鏡の増殖性、複写性にうずもれていき、やがて見えなくなってしまった。
 何時間たったのか、それともまだ数分とたっていないのか、それは分からないが、ちょうど自己同一性をすら失いかけて、危うい境界線上をふらふらと歩いていたころのことだ。ふいに光景にノイズが混じった。それは一枚の歪んだ鏡だった。あきらかに薄汚れていて、すみに黒い斑点ができていた。僕は鏡の真正面にたったが、そこにはなにも映ることはなかった。手を振ってみたり、足を曲げてみたり、おじぎをしてみたり、いろいろと試してみたが、やはり変化はなかった。諦めてきびすを返し、どこか別の所へ向かおうと歩き出すと、ふいに声が聞こえた。幼い少女の声だった。
「ちょいとお兄さん。お待ちなさいな」
 ふりかえると、鏡はなくなっていて、そこにぽっかり四角い穴があいていた。真っ暗な空間に、アニメのようなツインテールの少女がたっていた。
「ひさしぶり」
 と声をかけられたが、その顔に見覚えはなかった。
「僕らは初対面ではないでしょうか?」
 そう返すと、少女はあいまいに笑って、
「そうとも言えますし、そうとも言えません。この空間においては時間ですら鏡に屈服します。無限の時間の回帰のうちにわたしたちは幾度も出会い、幾度も恋をし、幾度も悩み、幾度も抱きあって、幾度も殺しあいました。わたしたちは既にそういった存在なのです」
「なるほど」
 と僕は言った。それは驚くほどに突飛な発想ではなかったし、なにより現在の僕は論理だった思考というものができないでいるのだった。
 だから、少女を殺した。どうせいつか殺すのなら、同じ事だと思った。ナイフをつかんだ右手と、ナイフをつかんでいない右手とがあって、僕がナイフをつかんだ方を前に突き出すと、切っ先はなんの感情も抵抗もなく、あっけないほどに心臓をくし刺しにした。
 悲しくて僕は泣いた。少女が死んだことが悲しく、また殺したことが悲しかった。彼女と送るはずだった数多の時間と、彼女と送った数多の時間が悲しかった。涙は鏡に反射し、増殖し、一瞬のうちに海となった。海の底で僕はゆっくりと沈んでいた。深海では増殖するということがなかった。大量の海水以外なにひとつなく、代わりに死の匂いに溢れていた。これでいいのだ、と僕は思った。このまま死んでいけばいいのだ、と思った。僕は彼女を殺したのだ。死んでしまえ、と思った。ふいに細長い美しい魚が泳いできた。リュウグウノツカイであった。そのまるい瞳孔はまったくの虚無であったが、なにか途方もないもの――たとえば神であるとか、たとえば宇宙より降り注ぐ電波であるとか、そんな空想じみた概念ではなく、もっと生々しく実際的で、ずっと遙かで壮大な印象をうけた――が闇の中にうつりこんでいた。
「やあ」
 と声をかけたが、言葉は泡になるばかり。
 彼はそんな僕を見て、嬉しそうに、悲しそうに笑った。
 海水を飲むと、渇いた身体に心地よく浸透していった。死の気配ばかりの世界に溶けこんだ、生命のようなものを胃の中に感じた。これでいいのだ、と僕は思った。彼に笑いかえそうと思ったが、すでにリュウグウノツカイは遙か高みにまで昇ってしまっていた。月の光をうけて銀のからだがきらきらと輝いていた。綺麗だ、と思った。

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