Fish Song 

 タイトルは平沢進氏の楽曲から。
 一番好きです。


 アルバート・フィッシュはオゾンを泳ぐ硬骨魚だ。見た目はピラルクーの身体に人の顔をつけたような塩梅で、肺でもエラでもない、特殊な呼吸器官を駆使しオゾンを吸って生きる。それ以上の詳しいことは誰も知らない。数少ない専門家は皆、気狂いとなるか、もしくはヒトガタとなって死んでいった。
 今までに捕獲された個体は記録上皆無。棲息地も不明。ブラウン管の側だとか、稼働するコピー機の上だとかの、オゾンが漂う所に時折、予兆もなく現れては前触れもなく消える。挙動は妖怪じみていて、まさしく神出鬼没だ。その構造はこの世界のあらゆる生物とも異なる、と唱えた学者は今、精神病棟で病んだ脳を癒している。
 人語を解するという噂もある。人を喰らうという風説もある。また、死んだ人間のなれの果てなのだという都市伝説も、ある。特にヒトガタとなって死んだ人間の。
 それらはどれも正しいようであるし、どれも間違っているようでもある。
 この驚くべき生物は、今も知覚の裏側に潜んでいるのだろう。僕の隣に。キミの中に。

        ○

 さしこむ西日が頭に響く。週末の夕暮れはひどくゆったりとしていて、部屋には僕が本をめくる音だけがわずかに軋むのだった。キミはいつも通り、三角座りで壁にもたれかかりながら、うつろに宙を見つめている。その肢体はギリシャ彫刻のしなやかさで、入道雲のようにくっきりと白い肌やかすかに潤んだ瞳を見る限り、とてもヒトガタだとは思えない。放っておけばふたたびひょっこり動き出しそうな気配で、どことなく精巧な球体関節人形を想起させる。
 ページを一つめくった。紙がすれる音。不器用に動く僕の指。静謐に動かないキミ。長い睫毛がまたたいて残像。それによってキミがまだ完全には死んでいないことを知る。
 ……ああ、だめだ。どうにも文章が頭に入ってこない。ついつい目が滑って、移って、まるで光に誘われる小虫のような僕の視線。こんな夕暮れは痛いくらいに切なくて、なんともキミが恋しいのである。諦め、本を投げ捨てる。そうして、キミの髪に絡ませる指先。それだけで満たされる。愛の電流は山吹に色濃く、ひとたび放電すれば香り高くオゾンが生じた。長い髪をかき上げ、狭い額に接吻する。と、キミは反射で目を閉じた。その挙動は子供のようで、どことなく可笑しかった。笑う頬をすりあわせると、接着点に見える仄かな体温と脈動。
 そうだ、散歩に行こう。
 ふと、考え付く。あの頃のように、河川敷で夕日を眺めよう。と。
 思い立って、ずっとしまい込んでいた車いすを取り出す。埃をかぶったそれを見ていると、ぼんやりと一つの情景が思い浮かぶ。
 それは河原に佇む僕だ。その隣で遠い黄昏に包まれ、スカーレットに美しい夕映えのキミだ。抱き上げればひと掬いの白砂のように軽くて。まだ完全にヒトガタになりきっていないキミは猫の毛のように柔らかく笑っていた。そうして、柔らかく触れあう掌。
 ああ、しかし、全ては過ぎ去った過去である。
 ふと、視界の片隅でアルバート・フィッシュが跳ねるのを見た。けれどもすぐにかき消えて、それきり。だから大して気にもとめずに、僕はキミを車いすに座らせる。そっと、そっと、大事に。慎重に。それでも。ああ、キミの左足は音も立てずに外れてしまって。
 ついにこの時が来たのを知る。そうか、と僕は呟く。遠い昔に凍り付いたのは心であって、この僕ではないのだ。だから、動ける。身体は動ける。左手が、落ちた左足を手に取り、切断面を合わせガムテープで固定した。右手が着衣をただし、見栄えを小綺麗にしたてる。右足で身体を支え、左足は微動だにしなかった。
 そして僕らは部屋を出る。家を出て、街を出る。その間車輪はがたがたと音をたてて廻り、キミの身体は揺れて揺られて小刻みに震えた。振動に合わせて、ぼろぼろと剥がれていく肌のテクスチャ。崩れるキミを見ていられなくて、僕は思い出へと視線を移す。

        ○

「ヒトガタ病にかかったの」
 キミが最近荷物を整理したり知り合いに挨拶にいったり、妙なことに奔走しているので理由を聞いた時の、その第一声がそれで、けれどそれはある程度予想していた答えだったので、そうか、としか思わなかった。
 大丈夫さ。キミが崩れる前までには対処法を見つけてみせるよ。……この僕がね。
 冗談めかして言うと、キミは心底楽しそうに笑ったので、僕も心底嬉しくなって笑った。
 あの頃はなんでも出来る気がしていたのだけれど。キミが隣にいるだけで、まるで神にでもなったような全能感。なんて、まったく笑い話にもならない。
 勘違いだ、と悟ったときにはすでになにもかもが手遅れだった。僕の理論は最後の最後で破綻していることが判明したし、キミは「ずっと一緒にいようね」と言ったきり顎が麻痺して、その数日後には脳もやられてしまった。きっとその頃だろう。僕の心も、キミと同じく動かなくなって。
 いつか、同じく砕け散るのだろう。それが、きっと今日なのだ。

        ○

 日が沈みきる前には河原についた。地平線にしがみつく夕暮れはひたすらに赫く、流れる血をさらに濃密にしたような色で世界を劇的に染めている。
 額の汗も拭わないまま、さようなら、と僕はささやく。キミに。キミ以外の何もかもに。アルバート・フィッシュに。すでに崩壊は臨界に達していた。外からの衝撃がなくとも、キミの身体は壊れていく。それでもキミは、何も言わず静かに気高くて。
 強く、風が吹いた。
 髪が大きくなびき、身体はいよいよ勢い高く崩れていく。粉と成ったキミは舞って散る。照る日がまぶしくて、川面がさざめいて、僕は涙を流した。キミがいなくなることが悲しくて。いや、それだけじゃない。その光景の、あまりの美しさに感動してしまったのだ。キミは粉と成っていてもキミだった。キミは空を舞っていてもキミだった。僕は叫んだ。意味もなく叫んだ。そうしたかったから叫んだ。そして笑った。うふふ、と笑った。
 ふと、視界の片隅でアルバート・フィッシュが跳ねるのを見た。一匹、二匹、三匹。たくさん。香るオゾンに乗って、アルバート・フィッシュの群れがキミを食む。そう。食んでいる。粉となった身体を飲み込んで、嬉しげに身体を震わせている。
 ゆうごけぷっちゃ。と、蕩けるようなバリトンが聞こえた。アルバート・フィッシュのものだった。意味はよく分からない。きっと人間の解せる言葉ではないのだろう。
 その声を皮切りに、不可視の言語で、彼らはいっせいになにごとか唸りはじめた。いや、それは正確じゃない。唸った、というのは僕の感想であり、おそらく彼らは、彼らの文法で明確に会話しているのだろう。声は次第に、様々な音階を含みはじめ、ある種のリズムを漂わせて、聞いたこともない和音を孕み、まるで地上五十キロメートルを覆う静寂のような、不可解な旋律へと変容していった。旋律は徐々に、徐々に、絡み合い、形を成し、生命を持ち、そうして新たに、一匹のアルバート・フィッシュがうろこを朱にきらめかせた。その顔はまさしくアルバート・フィッシュのものであり、またキミのものであった。両者は限りなく酷似していた。キミが微笑み、僕は再び叫んだ。嬉しくて。おぞましくて。あまりに空虚で。あまりに綺麗で。
 歌の余韻を響かせながら、アルバート・フィッシュ達は一匹、また一匹と姿を消していった。最後にキミが反転し、もうここには誰もいない。やがて日は沈み、暗闇には何も見えない。ただ耳に張り付くメロディーだけがやけに鮮明で。

        ○

 今でも、ふと、キミの事を思い出す。そのたびにアルバート・フィッシュが跳ね、僕はそっと目を閉じる。瞼の裏側に佇むのは、やはりキミだった。
「ずっと一緒にいようね」
 ……うん。ずっと一緒だ。
 呟いた言葉は崩れて、形にもならない。

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